人生に必要なのはチョコレートチャンクスコーンひとつ

 

ほんとうは、人生に必要なものなんてチョコレートチャンクスコーンひとつである。

ほんとうは、人生に必要なものなんてチョコレートチャンクスコーンひとつである、と書いている。新作の抹茶チーズケーキを、楽しみにしていたキャラメリーミルクコーヒーフラペチーノと合わせて食べながら。

なぜ抹茶チーズケーキを主題に置かなかったかというのは、チョコレートチャンクスコーンという言葉が持つ音が好きだからだ。明らかで、はっきりとして、あけすけのない。ただそれだけの理由だ。それはわりと、くだらない。

右耳に嵌めたワイヤレスイヤホン(これについて、詳しくは「一人で行うパーティのすゝめ」で読める)から好きなロックバンドの曲が最小の音量で流れて、左耳は隣にすわる女性二人の会話をキャッチし、そのままリリースする。私の耳は地獄耳というほどでもないけれど、この世にあるすべての音を拾っては脳みそへと届けようとする健気なものなので、私はそれにいつも、すごく、というよりはもう少しよわく、わざわざどうにかする程でもないけれど困るような、それくらいの程度の不便を、いつも。いつも、味わわされている。

 

それアンダースタンド。それアンダースタンド。

 

 

 

本当は、人生に必要なのはチョコレートチャンクスコーン。ひとつだけだ。

 

 

 

<古着屋で買った可愛い500円分、ちいさくて着れない服>

古着市に行った、500円のかわいいジップアップニットを買った、サイズは悪くなかった、帰ってから着ると服の型が体の形に合っていなかった、着れなくなったジップアップニット。色がかわいい。

 

閑話休題

 

月の半分が過ぎた。三日月が浮かぶ。

今月の頭から新しい仕事を始めた。事務の仕事だった。

詰め込まれる膨大な量の情報に脳内回線が絡まってこんがらがって解けなくなって、そのときの脳みそはどんなかたちをしているんだろうか。きのう、今日。脳みそはほどけて定位置にと戻って行った。仕事ってやっぱり楽しいなと思った。

9時から17時の仕事だった。一日七時間。以前までの労働サイクルから一時間減るだけでこんなにも変わる生活。そのうちまた、新しいバイトもそこに加わる。これだけでは、生活していけやしないから。

アルバイトもほどほどに、そろそろデザインの勉強を再開したい。思い立った二月にデザイン指南書を一つ買って三周して、三月にまたひとつ新しいものを買って、けれども、転職活動と新しい仕事への疲労感とで、少しやすんでいた。忙殺とは言わないが、むしろ今月からは時間があまり余っているが、からだはひどく疲れていた。でも、そろそろ。そろそろ、起き上がりたい。

 

<駄菓子のチョコレートとコーヒー>

駄菓子屋さんによく売っている、カラフルでコーティングされた安いチョコ。よく輪形のプラスチックにたくさんがひとつずつ部屋を作られていて収まっていて、アルミホイルで蓋をされている。安いチョコレートはおいしい。コーヒーも美味しい。胃腸の弱いわたしに薄いコーヒーは優しい。

 

閑話休題

 

恋人と別れて一ヶ月が経った。生活から彼女が消えた。たまに思い出したように、一緒に応援していたお笑い芸人の活躍を、その情報を送ってくれる。それに対して私がすごいよね、と返す。少しだけ会話が続いて、終わる。こんなふうにして、あのときはゼロ距離だった私たちの間の距離は、広がっていく。離れていく。届かなくなり、見えなくなる。ビトウィーン私、アンド彼女。元気でいてね

 

<連続する助詞はうつくしい>

文章を考えるとき、どうにかこうにか同じ助詞を連続で使わないようにする。意図的ではない場合は。意図的な場合は、そのうつくしさを含ませたいときだ。有名な歌人が、連続する助詞は美しく、またそれがそのまま詩になるんだと言っていたらしいと、この間知った。

この今日の私のブログの一説の、助詞の連続性の美しさの完璧さの。これを読むあなたの、明日からの新しい美しさの、ひとつの。

 

閑話休題

 

新しい職場の人たちは優しい。最近はずっとどこかおかしな環境にばかり身を置くことが多かったから、例えば何かをひとつ間違えたとして、怒られないことに驚く。普通ってそうか、と思い出す。怒ることは必ずしも悪いことではないけれど、怒る必要がないことって、たくさんある。

かわいい先輩がいて、その人の造形がとても好きなので、たまにちらりと見やる。バレているかもしれない。もしそうだったら、開き直ってやろうかと思う。遠くから見る後ろ姿だけでかわいいのは、すごいと思う。彼氏と同棲しているらしい、クソ。

おれはかなしいです。

 

<ほんとうに必要なのは、チョコレートチャンクスコーンひとつ>

絶対飲みたい、飲もうと決めていた。キャラメリーミルクコーヒーフラペチーノ。一口飲んで、すごく美味しくて、よかったなと思った、キャラメルソースを追加して。フラペチーノを用意する淑女の店員さん。「ソースの追加はいかがですか?無料でできますよ」レジが終わった後でもそんなことお願いできるんだ。「美味しいですよ」チョコレートとキャラメル、どっちが合いますか?「キャラメルがおすすめです」ニッと笑ってくれてよかった。美味しかったからよかった。うれしいなと思った。

新作の抹茶チーズケーキ、ずっと気になっていた。ショーケースには並んでいなくて、食べ物はどうですか?と聞いてくれるお兄さんに抹茶チーズケーキは売り切れたんですねと言うと、わざわざ裏まで行って在庫の確認をしてくれた。うれしい。ありました!と笑顔で戻ってきて、うれしい。楽しんでくださいね!と手渡してくれて、うれしい。ありがとう。

本当に必要なのは、チョコレートチャンクスコーンひとつだ。それは、ティースプーン一杯分の余裕と、それを許す度量だ。対義語は底を尽きたのに高い歯磨き粉だ。

適当なことばかり考える、少しやさしくなる。

私は語感の良さで生きている節があって、たまによくないな(だけど、おもしろいな)

 

本当に必要なのは、チョコレートチャンクスコーンひとつ。

 

食べているのは、抹茶チーズケーキだけど。

 

 

 

音楽が止まる。

イヤホンの充電が切れる。

 

なので、草々

近況、それと発見(2)+‪α

近頃の発見について

 

近頃した発見について話したい。私の中ではだいぶ大きめの発見。それこそ、人生が変わってしまうほどの。

どのような発見か。まずひとつ、私はいままでずっと勘違いをしていた。人生というゲームにおけるルール、趣旨、コンセプト。何となくそういう、要は指針になるような大それたもの。それを勘違いしていた。では、どんな風に?

私はずっと、この人生における安定性というものを重視し、それこそを競うゲームなんだと思っていた。だけど、違った。

そもそも人生をゲームと捉えるなんてどうかしていると人には言われたが、生きていくのであれば結局は何かをせずにはいられない人間なのだから、ゲーム性を見出したとて問題はないと思うし、私のような負けず嫌いにはその方が都合がよいのだ。

ただ私はそもそものゲーム内容を勘違いしていて、では実際は一体どのような内容なのか。それは、「自分の快・不快というパラメータについて、快をより大きくしていくゲーム」だったのだ。

生きていてどうしてもプラスマイナスの感情は生まれる。時にはどう考えても理不尽な、自らの行いとは相関のない災難が降って湧いてくることもある。ただそれを、どうにかプラスへ。自分にとっての快へと持っていく必要があるのだと思う。

例えば何か嫌なことがあったときに好きなものを食べて元気を出したりだとか、好きな曲を聞いたり、好きな場所へ行ったり。リラックスできるようなことをして傷を癒す。つまり、マイナスからプラスへと変えていく。自分のご機嫌取りが上手い人間ほど、このゲームでは優れているといえる。

これを例えばマイナスからプラスに変えるでもなく、マイナスになるものをただ排除した場合。例えば嫌な人がいて、嫌な気持ちになったけど、ただその人を避けるだけで自分には何もリターンをせずにいたとする。それ以上のマイナスはないかもしらないが、プラスになることもない。これだと一度マイナスになった気持ちは変わらず、ただそのまま停滞することになる。そうして時間が経てばいずれは癒えるだろうが、自分でプラスにしようとするよりは遥かに遅いだろう。それではいけない。

ただ、私は間違いなくそのタイプだった。そのタイプだったが故に、ゲーム性を勘違いするようになっていた。

元を辿れば学生の頃へと遡る。私の実家は裕福ではなく、シングルマザーなことと、私が中学二年に上がった頃から母親は働けない状況になったことで、齢14にして私は常に不安がまとわりつくような人生を送ることになった。経済状況が安定しておらず、そのため自分の進路の選択肢も狭まり、高校に上がったらアルバイトをして家庭を支えること。そして高校を卒業したらすぐに就職し、月に二桁もの金額を家に入れなければいけないことが決まってしまっていた。そんな状態が続くとどうなるか。多分わかりやすい。不安定を嫌い、安定と堅実を好むようになるのだ。

不安定というマイナスを排除する(安定する)ということは、それこそマイナスをなくしただけで、プラスにはならない選択だが、私はそうするしかないと思っていた。実際当時はそうするしか方法はなかったと思うし、よくやっていたと思う。ただ、マイナスになった気持ちが自動的にプラスになることは基本的にはない。それに気づけないまま、安定さえすればいいのだと、安定することこそが至上で、そうなることさえできれば私は幸せなんだと、いつからかそう思うようになった。手段と目的が入れ替わり、人生というもののゲーム性を見誤ったのだ。

それから今までは本当にひどかった。したいことがあっても、食べたいもの飲みたいものがあっても、基本的には我慢をする。なにか口実がなければそうしようとしない。なぜか。安定を損なう可能性があるから。そうして、私は我慢することが人よりもうまかった。少しばかりか耐久値が高いせいで、我慢することがそんなにはマイナスではなかった。だからそれを積み重ねて、プラスになることはなく、たまにマイナスになる出来事があってもそれを癒そうとはしない。つまり、どう転んでも徐々に転がり落ちていくしかないということ。加えて、私は自分がどうすれば快になるのか。つまりは自分のしたいこと食べたいものといった欲求が分からなくなり、ただ義務的にこなすだけで、自分が本当に欲しいものさえなくなってしまった。

最近仕事中に考えごとをしていた。今後の進路、つまりは仕事について。またいつ転職をするか、どのような職に就くか、どう生きていくのか。色々と考えて、自分が安定ばかりを目指そうとしていることに気がついた。気がついて、どうしてだろうと考えて、そして人生そのものの生き方を間違えてきたんじゃないかと、そんなふうに思った。

今までの全てが間違っていたなんてことはないよ、と人が言ってくれた。それを聞いて安心した。ただこれからより良くなっていくだけだよ。大丈夫。

気がついてから、少し人生が楽になった。自分が何かを望んでも、それは悪いことではない。贅沢でもない。マイナスをプラスにするのはそういうゲームだからであって、罪悪感を抱かなくてもいいのだ。

気がついた日、試しにと思い仕事帰り、卵と牛乳、そして干し柿を買った。卵と牛乳は、使いたいなというタイミングは幾度とあったものの、必須ではないから、お金の無駄だとやめていたもの。干し柿は、たまたまその時目について、買ってしまった。私は実は柿が凄く好きで、今年も食べたいなあとずっと思ったまま、食べずにいたものだった。それを半分に切って有塩バターを挟んで食べたいなと思った。それは、元恋人が教えてくれた食べ方だ。元恋人のことを思い出すのも、悪いことではないのだ。

仕事のことを考えた。今までの選択肢を一旦全てとっぱらって白紙にして、自分のしたいことは何かと考えた。私はずっと、人生で唯一、何もメリットはないけれど絵だけを描き続けてきた。たまに描かない時期もあったりしたけど、また筆をとって、描きたいと思うことだけは、今までずっと続いてきたことだった。

そしてデザイン関係の仕事について考えた。中学生の頃から、安定のために絶対に選ばないようにと考えていた職業だった。知り合いが薄給だと嘆く度、私はそうならない仕事に就こうと考えていた、憧れの仕事だった。

私は今二十一歳で、高校を卒業して働き出し、二回の転職を経験している。今は焼き芋屋さんで働いていて、案外適当でも人生は何とかなるもんだと気が付き始めている。

薄給でも求人が少なくてもいいんじゃないか。またこれから数回だって転職をしたっていいんじゃないだろうか。今から目指したって、いいんだきっと。だってそういう人生なのだから。そういう、ゲームなんだから。

これからは勝ちに行きたい。今までのことだって間違いなんかじゃないと抱えたまま、けれどこれからはもっとプラスになる生き方をしていきたい。人生楽しんだもん勝ちというのは、きっとそういうことなんだと思った。

 

 

今年も終わるね

 

2023年もいろいろありました。

今日は十連勤中五連勤目(気持ち悪い八字熟語)で、年末で、でも思ったより忙しくなくて拍子抜けして、午前四時まで働くみんなを残して会社から帰ってきた。

お客さんは年末でご機嫌なお客さんばっかりだったし、帰りに雨は降ったけど買い物をしていたら止んでいたし、年末最後にご褒美として色々と買った。今年最後の日、いい一日だったと思う。

来年は、今の新しい考えで新しい生き方をしていくことだろう。大変だけどまた頑張っていきたい。そう思えるから健康だ。

これからデザイナー職を目指します。頑張ります。2023年、ありがとう。

2024年も生きてくぞ!

 

 

追記(2024/1/1)

 

Twitter(X)で見かけたツイート(ポスト)に、「ライフハックを試そうとも自己肯定感の低さによりそもそも試すことができない」というようなものを見かけました。それ以外でも、やはり何かをするときに自己肯定感が低いということが足を引っ張ることが皆さん多々あるようで。

私は今回、何かを自分のためにするのに安定のために我慢をする、罪悪感があるから何もしない。そう言いましたが、確かに私も今まで自己を肯定する力が足りなく、そのおかげで(これは皮肉めいた言い方)自分への施しができない、というのも理由の一つだったのかもと、思い当たる節がありました。

この発見のおかげで私は知らぬ間に自己肯定感が低いという問題までをも解決してしまったのかも。それは、すごくいいことだな。

なんとかこのまま続けていって、素敵な人間になりたい。そう思います。

弱い人

仕事が終わって、残っていた材料を使い(私は飲食店勤務だ)同僚が作ったスイーツはそれはもう絶品と呼べる代物だった。堪らなくなって近くの自動販売機に駆けつけ、コーヒー缶をひとつ買った。私はなぜだか頭が悪くて、冷たい物が出てくるものだと思い込みながらスイッチを押したので、ガコンと落ちてきたそれを手に取ったときにそのあたたかに驚いて手を引っ込めた。もう一度コーヒーのボタンに目をやると、間違いなくそいつが温かい飲み物であると書いてある。どうしてアイスコーヒーが出てくると思ったんだろう。もう十一月も一週間が経つ頃、霜が降ることが由来の名前がついた今時期に"あったか〜い"がこの箱の大半を占めているだなんてことは想像にかたくない。むしろ当然とも言えるのに。きっと今日が暖かかったからかなあ。

ホットとアイスを間違えた、と零す私に同僚は「変な人だ」と笑った。変な私はホットコーヒーも美味しいからいいんだけど、と思う。

疲れた体にはコーヒーはよく沁みて、ほっとひと息ついた瞬間、今日も頑張った甲斐があるなと思えた。今日頑張ったのは多分これのためだった。私がそう言うと同僚は「安いなあ」とまた一つ笑って、自分が食べたいからと作っておいてまだ一口も手をつけずに、それでも満足そうに目を細めタバコを咥える。二十も年の離れた彼女からすると、私はまだまだ子どもに見えているに違いない。それは間違いなく事実ではあるんだけれども。

今日が期限の特製クリームは、とても甘い。

 

人間の強弱の話をするときに、何が一番に浮かぶだろう。単純な強さ弱さ、それは体の大きさや筋肉量、身体を動かし慣れているか。そういったところがおそらくは要になってくると思うんだけれど。では心の強さというのは、どうやって鍛えればいいんだろうか。

私は本当に弱い人間で、怖いものが沢山あって、他人はおろか自分のことさえまともに信じることが出来ない。いつもなにかに怯えていて、その度胃を痛めて、すり減っていく心のこぼれていくかけらを思いながら、ついさっきまで私だった一部にさえ気をやれない。心配ばかりするくせに、満足に体が動く訳でもない。ろくでもない人間だ。

弱い犬はよく吠えるとはよく言ったもので、実際チワワなんかはその体の数倍もある犬に比べてずいぶん騒がしいイメージだ。弱いからこそ、それをわかっているからこそ、威嚇のために懸命に吠える。自衛をしている。私もそうだった。

私は本当によく口が回って、喋るのが上手いという評価をありがたくも頂くことが多いのだけれど、実際のところはそんなことはなくって、ただ本当に。沈黙が怖くて仕方ない性質なだけであって。良くも悪くも常に喋っている。なんでも喋ってしまう。だからそのときも、同僚の中にこわいひとがいる、ということをスイーツを食べながらこぼしてしまったのだ。

元々は店仕舞いをしながら元気がないけどどうかしたの?と聞かれたのが始まりで、誤魔化すことだってできたのに、私は馬鹿正直になんでも話してしまった。今思えば、そうしてしまうほどには、なんでもないという言葉が喉をつかえるほどには、結構やられているのかもしれなかった。

こわいひとがいる。なにが怖いかって、その人は私がいるときには決まって不機嫌な人なのだ。数瞬前には別の同僚と仲良さそうに話していたのに、振り返ってこちらにやってきた瞬間に生活音が大きくなって、しかめっ面になって、語気を荒ませた調子で突然に大きな声を出しこちらへ指示を(もしくはダメ出しを)する。かと思えば、今度はまた振り返って笑顔で同僚と話し出す。その緩急に驚きつつも、心臓は正直だ。その人が前振りもなく大きな声で怒鳴るようにこちらへ話しかけてくるその度に、私は少し泣きそうになって、そうして思い切り走り出す心臓に体の全部を支配されている。本当に、弱くて仕方ないのだ。

どうしていつもそんなに怒ったような振る舞いなんだろう。どうしてそんなに私が気に入らないのだろう。どうしてどうして。

原因は分かっている。その人からすれば私は何かが足りなくて、それが気に入らないとそれだけのこと。おそらくその何かというのは仕事のことであったりするのだけれど、面と向かって注意してくるというよりは(してくるときもあるのだけれど)大概はなにも言わずにただ一人で怒り出している。困ったことに私はその対処法を知らない。なぜなら私は以前上長に教えられた通りに仕事をしていて、その人のタブーに触れる部分というのは必ずしもそうすべきものではないことがほとんどの。要はその人個人のこだわりがあって、それと違ったやり方をしている、ただそれだけなのだ。ただそれだけで、最近は無視をされたりなんかするわけで、もうどうしたらいいかわからない。これこそ万事休すだ、そんなふうに思う。

不機嫌なひとがそばにいることがいちばんに怖い。何をするか分からないから。何をしていいか分からないから。ため息であったり物を置く大きな音の一つ一つにビクビクしてしまうから。私は弱いから。弱いから、なんでも怖がってしまうから。

それでも気丈に振舞おうとしてしまう。私が怖がっていることを相手に悟られないようにしようとする。隙を見せないように。弱さを見せたらおしまいだ。そのときには、更なる追撃がやってくるに違いない。そうして私はまた多くを喋って、自分を強く見せようとする。同い年の同僚にも、私は全然気にしていないと豪語してしまった。本当は、一緒にいるだけでお腹が痛くなるのに。

こわいひとがいる、ということを話して、話し終えて、そうするとスイーツを作ってくれた同僚は「困ったねえ」と、本当に困っていそうな答え方をした。困らせてしまって申し訳ないと思った。きっとこちらを心配してくれているその様に、また申し訳ないと思った。

その後はまたぼちぼち話をして、またいつでも連絡してきてくれてもいいよと言ってくれた。シフトが被ることが少ないからと。優しい人だと思った。でも同時に、どこかでわずらわしく思わせているだろうことが心配だった。私からメッセージを送ることは、きっとなかった。

弱い人間だ。弱い人間だから、こんなに怖いけれど、相手のせいにしてしまえない。どこかで私に非があると思うからこそ強く心を保てない。あの人は可哀想だと思って、理屈ではそう思えて、でも実際に対峙するとただただ恐ろしい。次は一体何を言われるんだろうと、そういったことばかりを考えてしまう。

私はほんとうに、ひたすらに弱いんだ。

 

弱さは優しさにもなると、いつか言われたことがある気がする。本当にそうならいいなと思った。誰のことも傷つけたくない。傷つけるのすら怖い。それは、自分が傷つくことに繋がるから。でもそんなことはできっこないと知っている。人が人といるには傷をつけ合うことを避けて通れない。多かれ少なかれ、互いに傷つけ合いながら一緒に過ごすしかない。

でもなあ。自分にとってそんなに価値がない人に傷つけられることを良しとしたくはないなあ。それに、優しくだってなれない。普通に話せたらいいのにね、と同僚に言われたときに、そうですねと答えた私は、本当はそんなこと微塵も思っちゃいないのだ。話したくなんてないから、話せなくっていい。ただ話さなきゃいけないときだけ普通にしてくれればいいのにと。

だってもし傷をつけ合うのならば、そんなのこれからも一緒にいたいと思える相手がいい。それは例えば、恋人だったり。傷つけ合いながら優しくしたい、そうやって生きていきたいと思える人に。

弱さが優しさになるのなら、この弱さを、あなたのためにあると言える相手と大切にしたい。

 

スイーツを食べながら、私は弱いから、弱いなりに人に優しくしたいなあと思った。それはまるで、この特製クリームみたいに。

トリックオアトリートと言わないハロウィン

給料が出た。給料が出たので安めの焼肉屋さんに行って一人で焼肉を謳歌した。給料が出たので年金の支払いと住民税の支払いを済ませた。給料が出たので携帯の乗り換えをした。給料が出たので、来月にはクレジットの引き落としがある。ああ、諸行無常

今週の土曜には、友人と朝から晩まで遊ぶ予定がある。午前9時に待ち合わせて(朝、というのは比喩ではなく本当に朝なのだ)、その足でチームラボへ、そうして日本では二店舗目となるハリーポッターのグッズショップ「マホウドコロ」へ、グッズ購入に勤しんだらその後はサーカスを見るというてんこ盛りの一日になる予定。その後もまだ時間は余るはずなので、ゆっくり話をしながらご飯を食べることだろう。ああ、楽しみだ。当日は何を着ていこうかな。早く時間が進むといい。

最近は少しずつ今の生活にも慣れてきて、朝は何時までならギリギリ間に合うか、電車の乗り換えには大体どれくらいの時間を要するのか。考えなくたってわかるようになった。新しい仕事は休みは少ないけれど楽しくて、たまに訪れる常連さんの飼っている犬が主にやりがいの八割を占めている。お金をもらいながらアニマルセラピーが受けられる職場なんてそうそうないことだろう。そう思う。

今でもたまに元恋人のことを思い出してしまってイライラして、でもその後には今の恋人のことを考えて心を撫でる。もう、今の恋人のことを考える時間の方が多いはずだ。

こうやって日々をやり過ごして、今年も残り二ヶ月を切ったわけなのだ。

 

トリックオアトリートと最後に言ったのはいつになる?お菓子をくれなければいたずらするぞだなんて、こんなにも自分勝手な言葉はないと思うが、ちいさなこどもが唱えると途端に愛らしい魔法の言葉に変身するのだから、つくづくこどもという生き物は最強だ。私も少し前までは、そんな存在であったはずだが。今ではもう見る影もない。私はもう、お菓子をやる側の人間になっている。

最後に言ったのはいつになるだろう。おそらくは、小学校に通っていた小さな小さな私が最後だ。母に言ったか、友人に言ったか、教員に言ったか。もうそれすらも朧気で、その後に一体なんのお菓子をもらったかさえも覚えていない。遠い記憶だ。

そうしてひとつ思い出した。私にはトリックオアトリートよりも、「ロウソクだせ」という言葉の方が耳馴染みがあるということ。それは地元で昔から続いていた慣習で、概ねハロウィンでのみ有効なトリックオアトリートと同じものだ。ひとつ違うのは、行われるのはハロウィンではなく八月七日の、北海道では七夕の扱いになっている日であること。

書きながら一抹の不安がよぎる。この情報で合っているっけ?そうしてブラウザで検索した「ロウソク出せ」。出てきた文字列に、ああよかった。記載内容が合っていたことに安堵して、そのまま眺めると後に続くのはハロウィンの呪文よりも随分物騒な歌詞。それはいたずらどころではなく完全な武力行使を歌っていて、ロウソク(お菓子)をよこさない人間には噛み付いて引っ掻いて、なんともやりたい放題な怪物たちの軍歌である。

懐かしいな、と思った。近所の子供らと一緒に列を生して歌いながら歩く。 並んでいる家々へ順番にインターホンを押して行って、ざっと一周したらその日のノルマはクリアだ。帰ってくる頃には盛りだくさんのお菓子がある。喧嘩しながらでも、兄と分け合いながら二人で食べていたあの日。随分と大切にされていたんだなあとこの歳になって気づくのは、少し情けない。

今ではもう魔法の言葉は唱えられない私だが、果たしてその効力は本当に切れているんだろうか。聞き届けてくれる人はきっといて、それにまた気づいていないだけかもしれない。もしそうだとしたら、あの日から何も成長していないことになる。それは大変喜ばしくない事実だ。お菓子を分け与える側と思い込んでいるが、私にだってお菓子をくれる人は今もいるのかもしれない。いるといいなあ。もしいるんだとしたら、ありがとうと言いたい。私にお菓子をくれてありがとうと。

 

なんてこった。

こんなことを書いていたら電車を乗り過ごした。何かに集中すると何かが疎かになる。こんな癖は早く治したいところだが、今日はひとまず。がたごとと、のんびり進む各停の電車でお家に帰ろうと思う。

 

追記 : 恋人に「トリックオアトリート」と言ってみたところ、もう終わったよ、とだけ言われたので、来年こそはと思う。来年こそはお菓子が欲しい。来年こそは、私もお菓子をあげたい。来年こそ、来年こそは。

きっと来年のハロウィンまで、一緒にいられたら嬉しい。

一人で行うパーティーのすゝめ

通勤時間には音楽を聴く。一昨年の誕生日に元カノからもらったお下がりのワイヤレスイヤホンは、彼女から私へ渡った時点で既に使い込まれたものだったが、数年経った今でも尚健在だ。替える理由がなくて替えられていない私だから、きっといつか壊れるまではそのまま使うのだと思う。物持ちがいいとは都合の良い言い換えで、色んなことに対して無頓着であったり、億劫なものをそのままにしてしまう人間なだけなのだ。本当なら元恋人に関係する物なんて私の性格上は捨ててしまった方がいいだろうに、そう思う。

そうやって、色んなものを色んなところに散らかしたまま、見ないふりを重ねて生きていく私は本当に不出来な生き物で、その不出来さを目の当たりにする度に「仕方がないよADHDなんだから」と誰に言うわけでもなく言い訳をする。近年よく耳にするようになった言葉は、有名なインフルエンサーたちの自らがそうであるという発言によってか、広く知れ渡るようになったと思う。それに併せて、自分の欠けを見つめるのが怖いだけの健常者が自称するようになったのも現代だなあという感じがする。私だってその一人であって(最悪とはこのことを言う)、検査をしたらおそらくは診断が下るであろうという医者からの言葉だけでそれを振りかざし自分を守るのに使っている。だが傾向が強いのは事実で、ではなぜその検査を受けないんだと尋ねれば、万一にもそうでなかった場合(つまりは、不出来なだけの健常者であるということ)の事実に直面するだけの勇気がないのだと言う。もう正直そういうところだよね、と言いたくはなるけれども。

脳みそをほどいて文字にすることが好きだ。ぐちゃぐちゃに絡まったイヤホンを少しずつ元の形にするように、絶対こんなん解けないだろという知恵の輪を分かつように、私は何かを時間をかけて正しい形に正すという行為が好きだった。だからといって、それが得意かどうかという事実は別の話になるのだが。

数日にわたってこのブログは形作られていっていて、途中からまた書き始める度、数時間十数時間前の自分とのタイムラグによる思考の変遷を感じる。この助詞は合っていない、だとか。この句点読点は必要である、だとか。細かなニュアンスで意味が変わるのだから言葉は難しくて、だから私は何度も間違えるのだと思う。

いつもの通り本題前の前菜はこのくらいにしておこうと思う。まさか小話からヘビーである必要はないと思うから。そんなことを言っておきながら、内容が内容なのは、触れないでおく。

 

パーティーをしよう。パーティーだ!楽しい楽しいパーティー。パーティーをすると楽しい。もしくは楽しいとパーティーをしたくなる。今の私は前者で、パーティーが生み出す不思議な楽しいを味わいたい。縋り付きたい。あの異様ともいえる楽しいに呑まれていつの間にかこっちまで楽しくなっちまいたい。ハイ、先生はここまでで六回パーティーという言葉を使いました。先生パーティー!こら!先生はパーティーではありません。

パーティーとは基本的に複数人以上での催しのことをいうだろう。では一人でのあの楽しいはパーティーとは呼ばないのだろうか、呼んではいけないのだろうか。否。そんなことはないはずである。一人でしかできないような寂しいパーティーだってあっていいはずだ。孤独を優しく内包する私のためだけのパーティーを、一体誰が咎めるだろう。

どんなパーティーが好き?有名どころだとバーベキュー、たこ焼き、手巻き寿司、餃子、鍋、チーズフォンデュ……。基本的にありがちなパーティーというのは食べ物を大量に用意して大人数でワイワイ食すものだと思う。一人で食べるには量が難しいよね、というものをあえて大量に作ることによって発生するパーティー。だが面倒臭ささえ乗り越えてしまえば、一人分を用意することは難しいことではないし(連日のパーティー開催を余儀なくされる場合も含まれる)、少量を複数種類用意してテーブルを埋めることは誰の心も踊らす景色であるはずだ。

今いちばんしたいパーティーはおにぎりパーティー。お米を炊いておいて(うちの炊飯器は一度に三合までしか炊けないが、一人パーティーなら大丈夫)、色々な種類の具材。王道の鮭、おかか、梅にツナマヨ。それから変わり種のクリームチーズ×わさび醤油×かつおなど、何を入れたっていい。だってこれはパーティーなのだから。一口大ほどの小さなおにぎりを作って、くるんと海苔を巻く。出来上がったらそれをパクリ、だ。絶対に楽しい。絶対に美味しい。絶対に嬉しい。アツアツのお茶を用意しておいてもいい。自分の思い描くまま、やりたいようにやったらいい。

だがそう簡単に上手くいかないのが人生である。いかんせんお金がない。本当にない。びっくりするほどない。ああびっくりした。

もうちょっとあのお金が早く入ってくれればなあ、だとかあの支払いの期日がもう少し延びればなあだとかの叶わないたらればを抱えて、いつか落ち着いたらパーティーをしようと心でつぶやく。それを支えに毎日よろよろしながら歩く。一歩ずつ歩く。それが叶う頃には一人パーティーではなくって、二人パーティーになっていればいいなあなんて、強がりがぽろぽろ剥がれていく。そりゃあそうだよ、パーティーなんて人が多ければ多い方がいいに決まっている。一人パーティーを否定する気は毛頭ないけれど、私の場合はそうだった。誰かと幸せを共有するから楽しいんだった。

 

がたんごとん、とお決まりの擬音で表される音を立てながら電車は進む。今日も仕事だ。昨日は休みだった。やらなきゃいけないこと全部は出来ていないけど、少しは進んでるはずだ。右耳のイヤホンからは音楽が流れている。音楽がないと生きていけないな、と思う。いつかするパーティーにはなんの音楽をかけよう。パーティーには音楽はつきものなのだ、私の中では。

年を重ねても勝手に大人にはなれない

 

年を重ねても勝手に大人にはなれないらしい。21年生きてきたが、未だにさっぱり大人になれたなんて思えることはないのだ。

さいころは、20歳になったら大人になれると思っていた。中学、高校に入って少しずつ世界を知り始めていって、アルバイトを始めてからは責任能力がある人を大人と呼ぶのだと思うようになった。そして今、責任能力を持つ21歳の私は、そもそも大人ってなんだ?なんていう疑問を抱えながら生きている。

大人ってなんだろう。最近は物事を諦められるようになってしまった人なのかとか、取捨選択ができる人なのかとか、限界を知った人なのかとか、似たようで少しずつニュアンスの違う大人というイメージ像を複数持っている。昔より、明るい気持ちで大人という生き物を見ていないのではないかと思う。思う、けれども。それとは相反しているような「大人になりたい」という小さな子どもが、私の中には住んでいる。

私が大人を目指すタイミングというのは決まって自分の不甲斐なさに俯くときで、自らの理想像とのギャップに息が詰まる瞬間。私はどうにかその差を縮めたくなって、次には大人になりたい、と眉を寄せる。私の描く大人という存在は、そのまま自分の理想像を指しているのかもしれない。もしくは、それほどの自立を望んでいるのかもな、と気付いた。

完璧主義とかいう百害あって一利もないタバコみたいな短所を持った私は、基本的に自分のことが嫌いだ。だからこそなんでもできるようになった未来の自分と大人というあやふやな概念をイコールで結んでいるんだろうか。いつかはそこにたどり着けるものだと信じて。

もしそうだとしたら勘違いも甚だしく、きっといつまでだって私は大人になんてなれない。そんな歪な考えよりは、自分のことを大人だと思いこんでいた昔の私の方がずっと健康的だ。

大人ってなんだろう。それがわかる頃にはようやく大人になれているのだろうか。なってしまっているのだろうか。それはいつになるのだろうか。何も分からないので、まだまだ子どもの私はできる限り子どもを楽しもうと思う。

 

 

 

タイトルは早々に回収したが、今回の主題は別にある。あんなにウダウダしたものを書いて終わるのはさすがに嫌だったので……

 

 

21年の人生の年表図を書こう!

 

 

21歳になったので、今までの人生をざっくり振り返ってみようのコーナーをします。尚このコーナーは今回限りのものになっています。

そんなに事細かに記すつもりはないので、ざっくりやっていこう。

以下、本文。

 

 

2002(0)

生まれる。

 

2003年~2008(1歳〜6)

クソ生意気に育つ。

 

2009年〜2014(7歳〜12)

小学校六年生のときに、六年間仲良くしてた親友に実は最初から嫌いだったと告げられ人間不信になる(雑魚)。

 

2015年〜2017 13歳〜15

父親代わりだった人間が亡くなり母親が鬱になる。引っ張られて鬱になる。転校して友達を失う。兄は荒れる。姉と絶縁する。(地獄絵図?)

 

2018年〜2020(16歳〜18)

鬱が治らないので引き続き地獄絵図。母親はヒステリックお母さん構文の使い手になり、兄はモラハラ人間になる。(最悪の家系?)

 

2021(19)

地元北海道を離れ岡山に連れて行かれる。友達を失う(二度目)。働き出す。元元カノ(×2)に出会う。三人交際(?)を始める。

 

2022(20)

元元カノ(×2)と別れる。元カノと付き合い出す。岡山から家を出て元カノのいる愛知に引っ越す。仕事を変える。お金は微塵もないけどハッピー絶頂期!鬱が治まってきた!人生サイコ〜!

 

2023(21)←現在

元カノにフラれる。俺はどうしてここにいる。。。?鬱再発。二ヶ月休職する。仕事を辞める。焼き芋屋さんになる(?)。現在の彼女に告白されて付き合うことになる。

 

 

 

地獄?

知らなかったけどもしかすると実は濃いめの人生なのかもしれないな……

 

面白くて大変いいと思います。毎度死にかけてるけど……

 

最近はずっと芋を焼いてます。焼き芋屋さんの名に恥じぬようとろとろの焼き芋を作り上げております。店長がギャルでとてもいい。副業できる?って面接で聞いたら「聞いてないけどイけるっしょ!イけるイける〜!」って言われた。それ大丈夫?

店長はギャルだけど、他に社員はいないらしい。アルバイトしかおらん。若い人間ばかりでとてもいい。フリーターも多くて社不の巣窟って感じがして良い(良くはない)。中には変な人間もやっぱりいるけど(やっぱり?)でもこればっかりは生きていく以上避けきれやしないよな、と思っている。皆が皆いい人間ばかりではないのだ。

 

人生大変だな〜。なんでこんな大変な思いまでして生きてるんだ。本末転倒では?と思いつつ、仕方がないからまだもう少しは生きる予定。芋を焼きながら。

 

21歳、頑張ろう。

元恋人の服を段ボールいっぱいに詰めて送った

書き散らしがしたい、と思い始めて数日。ようやく重い腰をどっこいしょと上げて筆を執る。筆、と言ってもこの場合はスマホの小さな画面を見つめながらポチポチと文字を打つことを指すのだが。

 

私は今帰りの電車に乗り込んで、たまたま席が空いているのを見たのでそのままドスンと勢いよく座ったところだった。すっかり重くなった足を憂えた私は(今日はついてるな)と喜んで、そのすぐ後に(いや、ついてる、といっても今乗ったのは各停だから、座れて当然かもしれない)とも思った。ついてると思った方が幸せ数値が高いので、そんなことはよいものとした。

 

本当ははてなブログを開設して、そのままくだらないことをつらつら書こうなんて思っていたが、なぜかスパムと疑われてしまい、改めてもう一度開設の申請をし直した(今度はGooglがプラットフォームのアンケートのような形式だった)。明日か明後日には申請が通るらしい。問題がなければ(問題はないはず!そう信じたい)

私は申請が受理されるまで待てなかった。一刻も早く散らばった思考をえいとつかまえて文字に起こしてきちんと整列させたあと、ようやく理路整然とした脳みそにしてしまいたかった。我慢ならずに愛用のスマートフォンにデフォルトで入っているメモアプリを久しぶりに開いて(これはとても便利なものだ)、やっぱり小さな画面を見つめながらポチポチと文字を打っている。

おそらくこの書き散らしは、数日後やっと開設されたはてなブログのいちばんめの話として公開されるはずだ(上手くいけばだが。上手くいってくれ!)無事公開された。

 

小話もほどほどに、そろそろ本題に入りたいと思う。

 

 

元恋人の服を段ボールいっぱいに詰めて送った。タイトルの通りだ。

ずっと押し入れにしまっていたものだった。付き合っていた間にことあるごと置いていったりだとか、もしくは部屋着用にと新しく買って、私の家で着るために置いていったものたちだった。

本当は会って渡すはずだったのだが、元恋人は私に会う気はさらさらないのが見てとれたし、かくいう私も今からまたあの顔と対峙する勇気も、それだけの体力も無くなっていた。最後にいくつかやり取りしたLINEで、荷物は郵送しようと二人で決めた。最後の決めごとだった。

 

服は思っていたよりもたくさんあって、引越し用の段ボールひとつ分(私の引越しの際に使ったものだった)の大きさになった。引越し用といってもとびきり大きいわけではないそいつの中へ、無理やりに詰め込んでやっと入り切るくらいの量。それでも、よくこんなに置いていって困らなかったな、と思った。生活に支障が出なかったのは服をたくさん持っているからなのか、もしくは私といるときに着るという意義を持っていたそれらを、もう必要としていないからかもしれない。どちらなのかは分からなかったし、どちらでもよかった。もう関係のないことだった。

一着一着丁寧に畳んでいった。本当は洗濯だったりアイロンがけまでして返せたらよかったが、おそらくもうそこまでする必要はない私だし、かえって気を遣わせてしまうことは簡単に想像できた。せめて、と思いながら、見覚えのある服ばかりを丁寧に、丁寧に畳んでいった。

全て畳み終えて、詰め込んで、積み重なった服の上にビニール製の大きな袋(借りていたものだった)をのせて、さらにその上に付箋を貼り付けた。使い回しの段ボールで申し訳ないということと、せめて直で入れずに残っていた少しばかりの緩衝材を使ったので許してくれ、という旨を書いた付箋紙一枚。二枚目に、いままでの感謝と謝罪と、これからの幸せを祈っていることを書いて、段ボールを閉じた。これで本当に終わりだな、と思った。

 

いつも利用している宅配会社に集荷を頼んで、それが来るのが明日以降とわかった。直近の休みを集荷予定日から選んで、選んだあと、集荷をキャンセルした。コンビニに持っていった方が早いと思ったからだった。誰のために早く荷物を届けようとしているのか考えて、私のために他ならない、と強く考えた。行動原理が以前のまま元恋人になっていないかが、最近はいつも不安だった。私が持つには大きすぎる段ボールを抱えて、ゆっくりとコンビニへ向かう。その最中だって、私は不安になっていた。

着払いにしてくれ、と頼まれていた。言うことを聞くのはいやだったので元払いにしようかとも思っていたが、こうして反発しようとしているのも、元恋人への意識がまだあるからかと気づき、大人しく着払い伝票を店員さんに用意してもらった。

新しい住所はこのときまで知らなかったし、だからこそ書き慣れていないのも当たり前だったが、なんだか不思議な気分だった。色々なことが日々変わっていっているのを、ひとつずつ知らされていっていて、私もまた、色々なことを変えていっている張本人だった。

 

 

昨日のことを空でなぞりながら文字に起こして、あのときはああ思っていたんだなとやっとわかる。あのときは本当はああだったんだなと、知らない自分があることに気づく。

今日も一日仕事をしていて、暇な時間にまた浮かんだりするのが腹立たしかった。まだ恋愛感情があるかと言われたなら、そんなことはないはずだと返す。未練はあると思う。幸せだったのだから。

ではこの感情はなんだろうとまた考える。腹立たしい、と思うことが多いのはきっと、話し足りなかったんだろうと思った。私はたくさん話をしたい人間で、言わないとわからないし、聞かないとわからないと本気で思っている。

でももう話をすることはない。話をする必要がないから。話をするような間柄ではないから。話したくないと思われているから。私もそう思っているから。

それを少し残念に思いながら、もう仕様がないことだし、どうにかできたところで同じことの繰り返しだと、言い聞かせることをまた繰り返した。

友人にすらもうなれないことが悲しかったけれど、友人に戻ったところで傷付くのはわかっていたことだし、なによりもう戻らないと決めたのも私だった。

 

色んなことが腹立たしかった。自分なしじゃいられなくなればいいのにと言ったのは元恋人で、そうさせたのも元恋人だった。もし別れたときに自分のことを思い出すように言ったのは元恋人で、爪痕を残すねと言ったのも元恋人で、一人でいま苦しんでいるのが私だった。

 

このままではいたくないと思う(癪だから)。何とかしたい。こんなことを考えるのは新しい恋人に失礼だとも思う。ただ今はどうしても忘れるために考えていて、なくすために思い出している。

 

 

 

そろそろ最寄り駅に着く。明日も仕事だ。目が悪い私は三日月に鼻がはえているように見える。自分へのご褒美に買ったファミマのおにぎりとチキンを持って、家に帰った。