一人で行うパーティーのすゝめ

通勤時間には音楽を聴く。一昨年の誕生日に元カノからもらったお下がりのワイヤレスイヤホンは、彼女から私へ渡った時点で既に使い込まれたものだったが、数年経った今でも尚健在だ。替える理由がなくて替えられていない私だから、きっといつか壊れるまではそのまま使うのだと思う。物持ちがいいとは都合の良い言い換えで、色んなことに対して無頓着であったり、億劫なものをそのままにしてしまう人間なだけなのだ。本当なら元恋人に関係する物なんて私の性格上は捨ててしまった方がいいだろうに、そう思う。

そうやって、色んなものを色んなところに散らかしたまま、見ないふりを重ねて生きていく私は本当に不出来な生き物で、その不出来さを目の当たりにする度に「仕方がないよADHDなんだから」と誰に言うわけでもなく言い訳をする。近年よく耳にするようになった言葉は、有名なインフルエンサーたちの自らがそうであるという発言によってか、広く知れ渡るようになったと思う。それに併せて、自分の欠けを見つめるのが怖いだけの健常者が自称するようになったのも現代だなあという感じがする。私だってその一人であって(最悪とはこのことを言う)、検査をしたらおそらくは診断が下るであろうという医者からの言葉だけでそれを振りかざし自分を守るのに使っている。だが傾向が強いのは事実で、ではなぜその検査を受けないんだと尋ねれば、万一にもそうでなかった場合(つまりは、不出来なだけの健常者であるということ)の事実に直面するだけの勇気がないのだと言う。もう正直そういうところだよね、と言いたくはなるけれども。

脳みそをほどいて文字にすることが好きだ。ぐちゃぐちゃに絡まったイヤホンを少しずつ元の形にするように、絶対こんなん解けないだろという知恵の輪を分かつように、私は何かを時間をかけて正しい形に正すという行為が好きだった。だからといって、それが得意かどうかという事実は別の話になるのだが。

数日にわたってこのブログは形作られていっていて、途中からまた書き始める度、数時間十数時間前の自分とのタイムラグによる思考の変遷を感じる。この助詞は合っていない、だとか。この句点読点は必要である、だとか。細かなニュアンスで意味が変わるのだから言葉は難しくて、だから私は何度も間違えるのだと思う。

いつもの通り本題前の前菜はこのくらいにしておこうと思う。まさか小話からヘビーである必要はないと思うから。そんなことを言っておきながら、内容が内容なのは、触れないでおく。

 

パーティーをしよう。パーティーだ!楽しい楽しいパーティー。パーティーをすると楽しい。もしくは楽しいとパーティーをしたくなる。今の私は前者で、パーティーが生み出す不思議な楽しいを味わいたい。縋り付きたい。あの異様ともいえる楽しいに呑まれていつの間にかこっちまで楽しくなっちまいたい。ハイ、先生はここまでで六回パーティーという言葉を使いました。先生パーティー!こら!先生はパーティーではありません。

パーティーとは基本的に複数人以上での催しのことをいうだろう。では一人でのあの楽しいはパーティーとは呼ばないのだろうか、呼んではいけないのだろうか。否。そんなことはないはずである。一人でしかできないような寂しいパーティーだってあっていいはずだ。孤独を優しく内包する私のためだけのパーティーを、一体誰が咎めるだろう。

どんなパーティーが好き?有名どころだとバーベキュー、たこ焼き、手巻き寿司、餃子、鍋、チーズフォンデュ……。基本的にありがちなパーティーというのは食べ物を大量に用意して大人数でワイワイ食すものだと思う。一人で食べるには量が難しいよね、というものをあえて大量に作ることによって発生するパーティー。だが面倒臭ささえ乗り越えてしまえば、一人分を用意することは難しいことではないし(連日のパーティー開催を余儀なくされる場合も含まれる)、少量を複数種類用意してテーブルを埋めることは誰の心も踊らす景色であるはずだ。

今いちばんしたいパーティーはおにぎりパーティー。お米を炊いておいて(うちの炊飯器は一度に三合までしか炊けないが、一人パーティーなら大丈夫)、色々な種類の具材。王道の鮭、おかか、梅にツナマヨ。それから変わり種のクリームチーズ×わさび醤油×かつおなど、何を入れたっていい。だってこれはパーティーなのだから。一口大ほどの小さなおにぎりを作って、くるんと海苔を巻く。出来上がったらそれをパクリ、だ。絶対に楽しい。絶対に美味しい。絶対に嬉しい。アツアツのお茶を用意しておいてもいい。自分の思い描くまま、やりたいようにやったらいい。

だがそう簡単に上手くいかないのが人生である。いかんせんお金がない。本当にない。びっくりするほどない。ああびっくりした。

もうちょっとあのお金が早く入ってくれればなあ、だとかあの支払いの期日がもう少し延びればなあだとかの叶わないたらればを抱えて、いつか落ち着いたらパーティーをしようと心でつぶやく。それを支えに毎日よろよろしながら歩く。一歩ずつ歩く。それが叶う頃には一人パーティーではなくって、二人パーティーになっていればいいなあなんて、強がりがぽろぽろ剥がれていく。そりゃあそうだよ、パーティーなんて人が多ければ多い方がいいに決まっている。一人パーティーを否定する気は毛頭ないけれど、私の場合はそうだった。誰かと幸せを共有するから楽しいんだった。

 

がたんごとん、とお決まりの擬音で表される音を立てながら電車は進む。今日も仕事だ。昨日は休みだった。やらなきゃいけないこと全部は出来ていないけど、少しは進んでるはずだ。右耳のイヤホンからは音楽が流れている。音楽がないと生きていけないな、と思う。いつかするパーティーにはなんの音楽をかけよう。パーティーには音楽はつきものなのだ、私の中では。